
「恋は盲目」です。
そんなことわかっていても、いざ恋に落ちればやっぱり周りが見えなくなります。自分の意思でコントロールが効きません。恋をした人にずっと会いたいし、話がしたくなりますよね。もしかすると、単なる心のバグかもしれません。DNAの仕業かもしれません。でも理由なんて探っても意味ないです。だって恋をする理由がわかっても好きなものは好きなんですから。やっぱり周りが見えなくなることは変わらないです。
言い方を変えると見えている世界が変わる、ともいえませんか?例えば、今まで電車の中でイチャイチャしていたカップルに迷惑そうにしていたことが、なぜか微笑ましく見えたりする。そのカップルに自分を投影したり、勝手にうまくいくことを祈ったり。単純に浮かれている気持ちに同調しているだけかもしれません。逆に、場合によっては沈んでしまうこともありますが、見える世界が変わりますよね。
生活をしていると色んな人にチャンネルが合います。それは自分とその人が合うという、いわゆる相性というものでしょうか。でも、環境が変われば離れたり近づいたりなんてします。その中で、恋というのは「強制的」にチャンネルが合ってしまう。他の世界に行かせてくれない。寝ても覚めてもその人のことを考えてしまう。理由を知る意味なんてないよといいましたが、そう思っても、なんでこんなに好きなのかと自問自答、葛藤、喜びとか悔しさとかが湧き出てきます。
恋は、いつもいつでもあなたの心の柔らかいところをつついてきて、初々しい自分が目覚める感じで、社会の流れなんて関係のない純粋な自分です。俯瞰できないちっぽけな自分でもあり、目の前のものにしか興味のない子供みたいです。こんなに社会でたくさんの経験を積んで自分をコントロールできていても、なんでこんなに思い通りにいかないんだ、ちょっとうまくいくだけですごく喜んだり、ちょっと失敗しただけですごく落ち込んだり・・・。
恋をしているとき、本当にその人を見ているのでしょうか。
ほんとうのその人を知っているのでしょうか。
というか「他人を知る」というのは、なかなか難しいものです。
人は、知らない部分は「ものがたり」で埋めます。
未来も「ものがたり」で埋めますし、過去も補正され「ものがたり」になります。
恋も「ものがたり」です。ただし強制的な。
と、僕は考察します。
社会で、うまくいくときやいかないときは、悩みながらなんとか頑張る時もありますが、ある程度はあきらめたりできますよね。その先の「ものがたり」を途中で終わりにすることもできます。途中で「ものがたり」をだれかに託すこともできます。過去の「ものがたり」にふたをすることもできます。恋はどうでしょうか。簡単に「ものがたり」を終わらせることはできません。コントロールが効かないので。
人は春のような季節に何か新しいことを始めたくなります。新しいこととは慣れていない青いもの。知らない未来に向けて「ものがたり」が追い付かないくらい全力で生きるようなもので、それは「今」が「未来」と一体化したようなものと考えます。平たくいうと青春です。
「ものがたり」をど~~しても叶えたい!(強制的に思ってしまう)
うまくいっても失敗しても、その恋には未来を変える強いチカラがあるってことです。
苦しい時代に入っています。良くも悪くも今すごく世界がひとつになっています。風が吹けば桶屋が儲かるように、素敵な未来にするためには、まずは人を好きになること、自然を好きになること。そして色んな好きなものを大切にすることじゃないでしょうか。
みなさんが好きな人たちとつながりますよう勝手に祈っています。
Frau EDU フラウエデュ
by Yuta